俺と昨日辞任表明したシルヴィオ・ベルルスコーニを語る

 2011-11-09
今晩わ、DBユーヤです。
昨日、イタリアで現首相のシルヴィオ・ベルルスコーニが辞任表明しました。今日は彼・ベルルスコーニを取り上げます。

まずはシルヴィオ・ベルルスコーニとは何者か?

シルヴィオ・ベルルスコーニ (イタリア語: Silvio Berlusconi, イタリア語発音: [ˈsilvjo berluˈskoːni] 1936年9月29日 - ) はイタリア共和国の政治家、実業家。同国閣僚評議会議長(首相に相当)を3期(第74代・第79代・第81代)務め、政界再編(タンジェントポリ)後のイタリア政界を代表する政治家の一人と見なされている。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が創設した労働騎士勲章英語を1977年に授与されており、支持者からはイル・カヴァリエーレIl Cavaliere)と呼ばれる事もある。他にイタリア民主党と並ぶ二大政党である自由の人民(自由国民党)の初代党首兼創設者で、加えて私生活では総資産78億ドル(世界第118位)を保有する世界有数の資産家でもある(2011年現在)[1]

ベルルスコーニはファシスト政権の独裁者ベニート・アミルカレ・ムッソリーニや1900年代前半に5期にわたり王国宰相を務めたジョヴァンニ・ジョリッティに次ぐ長期政権をイタリア政界で樹立した。それ以前は共和制移行後、最初に首相となったアルチーデ・デ・ガスペリが戦後イタリアにおける長期政権として知られていたが、既にベルルスコーニの首相在職期間はガスペリを上回っている。政界再編の混乱で一挙に政権を獲得したが短命に終わった第一次政権(1994年-1995年)、政権奪還後の第二次政権(2001年-2006年)、そして二大政党制を迎えての第三次政権(2008年-現在)と三度の政権での首相経験年は9年を超える。また、サミット(先進国首脳会議)を議長国首脳として3回主催した唯一の首脳でもある[2011年現在]。

ベルルスコーニは自らの事業の一角を占める新聞・テレビ・インターネットなどを通じて有利な政治活動を行っているとしばしば非難を浴びている。また首相としての権限を使用してメディア統制を進めているともされており、DDL intercettazioni(通信傍受法)可決に反対してイタリア語版ウィキペディアが一時更新を停止する事件が起こっている。汚職疑惑、性的スキャンダルなどの問題行為も取り沙汰されている[後述]

次はシルヴィオ・ベルルスコーニの生い立ち

青年期

1936年9月29日、王政時代のイタリア王国ロンバルディア州ミラノ市で銀行員ルイジ・ベルルスコーニの長男として生まれ、中流家庭で育った[3]。兄弟姉妹にパオロ・ベルルスコーニ、フランチェスカ・ベルルスコーニらが居るとされている。小学生時代ではパペット劇団を結成して収入を得るなど、子供のころから商才は際立っていた[4]

サレジオ会系の寄宿学校在学中に第二次世界大戦と王政廃止を経験している。卒業後にミラノ大学法律学を学び、広告業における法律を専攻分野にして1961年に卒業資格を得ている。学校での成績は「優等」として記録されているが、一方で徴兵制であった当時のイタリアで兵役義務を回避したとのスキャンダルが報道された事もある[5]。在学中は音楽に熱中しており、コントラバス奏者のコミュニティに参加していた。このグループでの友人知人は後にベルルスコーニの事業に関わる人脈となっている。現在でも音楽に対する嗜好は変わらず、自身が保有するサッカークラブACミランの応援詩を自ら作曲したりしている(ちなみにベルルスコーニは一時期ACミランのオーナー兼会長を務めていたこともある)。1965年に最初の妻となるカーラ・エルビアと結婚、長女マリアと長男ピエル・シルヴィオを儲けた。後に後妻となるヴェロニカ・ラリオと不倫関係となって1985年にカーラとは離婚、ヴェロニカと再婚。当時ベルルスコーニは著名な資産家になっていたので、再婚式は大きな話題を集めた。2009年、ヴェロニカもまたベルルスコーニの不倫疑惑に離婚交渉へと入ったと発言した[6]

「メディア王」

1978年に地方民放TV局「テレミラノ」を開局 、10年後の1988年には百貨店「スタンダ」会長に就任、一代で建設・流通・メディアにわたる企業グループ「フィニンベスト」を築き上げた。

特にメディア部門を統括するメディアセットは、全国的な地上波放送を行う民間放送4局のうち、「Italia 1」、「Rete 4」、「Canale 5」の3つを所有する。「イタリアのメディアの70%をコントロールする」といわれるほど。

「ロッジP2」

ベルルスコーニが「ロッジP2」に加入した際の会費の領収証

1978年には、「ネオ・ファシスト党」として知られる極右政党のイタリア社会運動(MSI)の幹部の党員で、後にボローニャ駅爆破事件などの極右テロや、ロベルト・カルヴィ暗殺事件の主犯格として逮捕されたリーチオ・ジェッリ代表が率いる「ロッジP2」のメンバーとなった。なお「ロッジP2」は、元々はフリーメイソンだったが南アメリカの反共軍事政権への違法な援助などを理由に、1976年にフリーメイソンとしての承認を取り消されて以降は「反共極右主義者の秘密結社」として活動していた。

なお、ジェッリが逮捕された後の1981年3月に、当時いくつかの経済犯罪及び極右テロ、政府転覆謀議などへの関与の容疑でイタリア当局に逮捕状が出されていたジェッリ代表のナポリの別宅をイタリア警察が捜索した際、既に「認証されないロッジ」となっていた「ロッジP2」に下記の10人を含む932人のメンバーがいることが、ジェッリ代表が持っていたリストから確認された。

その中には、第二次世界大戦後の王制廃止により亡命生活を余儀なくされていたヴィットーリオ・エマヌエーレ元イタリア王太子の他にも、後にベルルスコーニ政権下で国防大臣を務めたアントニオ・マルティーノーを含む30人の現役将軍、38人の現役国会議員、4人の現役閣僚、更には情報部員やベルルスコーニをはじめとする実業家、大学教授などが含まれており、イタリア政界を揺るがす「P2事件」と呼ばれる大スキャンダルとなった。

「ロッジP2」とジェッリ元代表は、ベルルスコーニが右派及びマフィアの人脈を構築することに大きく貢献し、またベルルスコーニ政権下の2007年に、ジェッリ元代表がカルヴィ暗殺事件において無罪判決を勝ち取った際には、ベルルスコーニが何らかの影響力を行使したと言われている。

政治家へ

政治家への進出は1990年代に入ってからである。1993年頃から追及が始まった汚職疑惑で、キリスト教民主主義を始めとした政権与党が崩壊寸前に陥る間隙をぬって、1994年1月「フォルツァ・イタリア」を結成。豊富な資金力と支配下のメディアの積極的な活用で下院議員に当選、国民同盟北部同盟と連立政権を画策した。自身は同4月、戦後第53代イタリア首相に就任した。

しかし翌年には、政治家になる前の贈賄の疑いで起訴[7]され、更に連立与党間の対立が引き金となって政権は崩壊した。一度は下野したものの、2001年総選挙で再び勝利し、再度首相となった。

再び政権について以降は、メディアセットの競合となる国営放送「RAI」に対しても影響力を行使しようと画策した。2002年にはメディアセット社が、民放1局を衛星放送に切り替えるように憲法裁判所から判決を下されたものの、翌2003年12月にいわゆるガスパリ法案が議会で可決する。メディア寡占規制が緩和されると同時に、国営放送RAIは分割民営化されることになると見られていた。しかし、イタリア内外で非難を浴びたため、カルロ・アツェリオ・チャンピ大統領は署名を拒否、法案を下院に差し戻した(イタリア共和国憲法参照)。

2003年のエヴィアン・サミットに参加(右端)。シラクブッシュブレア(いずれも当時)の各首脳と

2003年7月2日、2003年下半期の欧州連合理事会議長国の政府首脳として欧州議会で演説、彼を批判したドイツマルティン・シュルツ議員に対し、「シュルツさん、私はナチス時代のドイツ強制収容所に関する映画の製作者を知っています。あなたを看守役に提案しましょう。あなたならピッタリだ!」と発言し、問題となった。2004年の夏季休暇中に、密かにプチ整形植毛を行ったことで世界中の話題となった。

2006年4月9日10日に行われた総選挙では、ロマーノ・プローディ元首相・前欧州委員会委員長率いる中道左派連合との一騎打ちとなり、最後まで大接戦を繰り広げた。僅差で野党が勝利、票の再集計など混乱が続いたが、ベルルスコーニは最終的に敗北宣言した。事前に苦戦が伝えられた中で善戦したことで、中道右派連合において一定の求心力を維持し、引続き野党指導者として新政権と対決していくことを表明した。

2008年1月末の議会不信任によるプローディ政権の崩壊に伴い、選挙制度改革を目的とした暫定政権の樹立が模索された折には、強く反発して上下院の解散に追い込んだ。4月の総選挙においては右派勢力を糾合し、上下院で圧勝、2年ぶりの政権奪回を果たした。政権発足後の閣議をナポリで行い、ゴミ問題や不法移民対策の強化を打ち出すなどして変革を訴えた。

2008年の洞爺湖サミットに参加(左端)

ベルルスコーニは2005年10月19日に来日する予定であったが、2006年4月9日10日投票のイタリア総選挙の準備のため、来日をキャンセルした。しかし、2008年5月にイタリア首相に復帰したことにより、7月の主要国首脳会議(洞爺湖サミット)に出席するために初来日した。なお、2008年福田康夫がイタリアを訪問したが、国際連合食糧農業機関(FAO)本部で開催の食糧サミットの参加のための非公式訪問である。

3度目の政権においては、公約に掲げたアリタリア航空の再建や世界同時不況の対応に苦慮しながらも、2008年9月には発足以来最高の60%の支持率を叩き出した。発足後1年を前にした2月にも6割前後の支持率を維持するなど、旧西側先進国のリーダーの多くが低支持率に悩む中にあって安定した人気を保った。街角での警備体制や不法移民対策の強化など治安対策に対する支持や、左派の退潮、奔放な発言も含めて人物に対する好感度の高さが要因だという[8][9]

しかし、2009年7月頃に買春疑惑が発覚、首相と売春婦との浮気現場の音声テープも漏れて支持率が落ち、9万人もの退陣デモまで行われた[10]2009年12月13日、ミラノ中心部で演説中に42歳の暴漢から投げ付けられたミラノの大聖堂のミニチュア模型が顔面を直撃、鼻や歯2本を折る全治15日の重傷を負った[11]

2010年に入ってもスキャンダルや失言で支持率が低落傾向にあったが、政権を揺るがすほどのところまでは至らなかった。7月にはかつての盟友であったジャンフランコ・フィーニ下院議長が与党会派を同志約30人とともに離脱して独自の会派を結成、政権への攻撃を強めたが、なんとか政権を維持していた。とはいえ下院で過半数の議席を失い政権が弱体化する中、2011年に入ると自身の売春スキャンダルが大きく取りざたされ、検察の追及も厳しさを増すなど、先行きは不透明さを増している。2011年2月15日には、ついにミラノ地裁に未成年者売春罪と職権乱用罪で起訴された[12]

2011年11月9日、欧州に於ける経済不安が広がりを見せる中、自らが欧州連合に公約した国家財政緊縮(健全化)法案がイタリア議会下院での審議で成立すれば直ちに閣僚評議会議長(首相)を辞職することを表明した[13]

最後はシルヴィオ・ベルルスコーニのトリビア

奔放な人柄でカリスマ性を持つが放言・失言が物議を醸して問題になったことがある(前述の2003年7月:EU議長国の演説で、彼を批判したドイツのマルティン・シュルツ議員に対し、「私はナチス時代のドイツの強制収容所に関する映画の製作者を知っています。あなたを看守役に提案しましょう。あなたならピッタリだ!」発言、アメリカ同時多発テロ事件の直後「残念ながらムスリムは1400年前の価値観に留まっており、西洋世界はムスリムや共産主義者にはない、自由を愛する原則と価値観を護らねばならない」発言、など)。

贈賄罪などで100回以上訴追されてきた事があるが、統領や首相や国会議長を訴追の対象外とする免責法や公務を理由に出廷を免除される特権法を成立させるなどして、裁判を引き延ばし、時効を成立させいる。

前述のとおり、売春スキャンダルや浮気などの問題を起こし、中に起訴されるほどの展開まで来たこともある。


と、こんな風に今日辞任表明したベルルスコーニを取り上げました。先週の退陣デモ(http://ameblo.jp/davidsunrise/entry-11070776383.html参照)から1週間、まさか今日退陣するとは思いませんでした。デモの影響は大きいといえるかもしれません。なぜ日本ではイタリアのようなデモがおきないんだ?政治家どもが国民を飼いならしてるから?


ベルルスコーニ首相

参考資料
ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%8B#.E9.96.A2.E9.80.A3.E9.A0.85.E7.9B.AE
ロイター・ベルルスコーニ伊首相、予算関連法案成立後に退陣へ2011年 11月 9日 09:35 JST
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-24060620111109

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