夜になりました&ウサーマ・ビン・ラーディンの死から1年

 2012-05-01
こんばんわ、さっきまでドラゴンゲートを見てたDBゆーやです。夜になりました。父ちゃんたちはまだ帰ってきてません。早く帰ってこないかな?

Osama bin Laden portrait.jpg
今日の朝日新聞でアルカイーダとウサーマ・ビン・ラーディンのことを書いた記事がありました。そういえば明日は彼の命日だったな。改めて調べなおす必要があるな。ちなみに去年も彼のこと調べてました(詳しくはこちら 俺とウサーマ・ビン・ラーディンを語る http://ameblo.jp/davidsunrise/entry-10879143518.html]。

まずはウサーマ・ビン・ラーディンとは?

ウサーマ・ビン・ラーディンأسامة بن لادن)ことウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディンأسامة بن محمد بن عوض بن لادن、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin, 1957年3月10日(同年1月1日説や1956年説( 2011年(平成23年)2月18日、外務省告示第56号「国際連合安全保障理事会決議に基づく資産凍結等の措置の対象を改正する件」 )などもある)? - 2011年5月2日?)は、サウジアラビア出身のイスラム過激派テロリストアルカーイダの司令官(アミール)であり、アメリカ同時多発テロ事件(アメリカ政府の陰謀説もある)をはじめとする数々のテロ事件の首謀者とされる。連邦捜査局(FBI)における最重要指名手配者の1人であった。身長194cm。体重約73kg。FBIの指名手配書によると肌はオリーブ色、髪と瞳はブラウンと表記されている。

2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、米国海軍特殊部隊が行った軍事作戦によって死亡したと報道された。

次は生い立ち

ウサーマは、ムハンマド・ビン・ラーディンの10番目の妻でシリア生まれのハミド・アル=アッタスの子としてサウジアラビアのリヤドで生まれ育った。生年はウサーマ自身アルジャジーラとのインタビューで1957年3月10日である、と述べている(前述のとおり、1956年説もある)。父・ムハンマド・ビン・ラーディンと母・ハミド・アル=アッタスの間の最初の男児であった。シャリーアでは妻の数は4人までとされるが、ムハンマド・ビン・ラーディンは20回以上結婚し50人以上の子供がいる。ウサーマはその17番目の子である。ムハンマドは妻ハミドとウサーマ生誕直後に離婚、ハミドは再婚し新しい夫との間に4人の子をもうけた。ウサーマはその新しい兄弟の頭として成長。敬虔なワッハーブ派ムスリムとして育てられ、エリート教育がなされた。高校時代にイスラム原理主義に触れたとも言われる。ウサーマは17歳(18歳説もある)のとき、ラタキアで最初の結婚をした。CNNによるとウサーマは4度の結婚歴があり、子供の数はこれまでに20人程。ウサーマは、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学・経済・管理学部に入学するが、宗教や詩作に向かい、ムスリム同胞団に加入、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられる。さらに同大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった。ウサーマは自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている。大学で学位取得後、暫くの間、クルアーンの規定の遵守を監督するシャリーア警察に勤務していた。
ソビエト連邦(現・ロシア連邦)のアフガニスタン侵攻(1978年-1989年)時、サウジアラビアは、アフガニスタンのムスリムの抵抗を積極的に支援することに決め、王室に近かったラーディン一家に支援を要請。ウサーマは、アブドゥッラー・アッザームの誘いで、アフガニスタンでソビエト軍と戦うことを決意、パキスタンに向う。駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表に任命され、アフガンゲリラ諸派とともにムジャーヒディーンとなった。この時期より迷彩服を着用し、素手(?)でロシア人兵士を殺して奪ったアサルトライフル(AK-47?) を常に携帯するようになった。

サウジアラビア総合情報庁長官トゥルキー・アル=ファイサル皇太子の委任により、ウサーマは個人財産を使ってアフガンへの義勇兵のスポンサーとなり、アブドゥッラー・アッザームと共にペシャワールで「サービス局」(マクタブ・アル=ヒダマト。MAK)を開設し、エジプトなどアラブ諸国からアラビア人義勇兵を募集して組織化しアフガニスタンへ送り込んだ。オマル・アブドゥル=ラフマーンなどと親密な関係を構築したのはこのときだった。
ムジャーヒディーンはアフガニスタンでは反共・反ソの観点からアメリカ合衆国のCIA・パキスタンのISIを後ろ盾に援助を受けていたが、ソビエト敗退後、ビン・ラーディンは反米活動に転じる。ユーゴスラビア紛争に積極的に関与し、バルカン半島のイスラム勢力を支援。サウジアラビアへ帰国したビン=ラーディンは湾岸戦争時にサウジアラビア王家が彼の献策を退けてアメリカ合衆国の軍隊を国内に駐留させたことに反発し、急速に反米活動に傾倒していった。このあたりは2001年10月7日に出された彼の声明の中でも「不信心者の軍はムハンマドの地を去れ」という文言で表されている。サウジアラビアは、ビン・ラーディンを危険視、国外出国を禁止す。

ビン・ラーディンはアフガン帰還兵への福祉支援組織を隠れ蓑にイスラム主義(原理主義)的な背景を持つ国際テロリズムのネットワークを作り上げたといわれている[NHKスペシャル『9.11テロ 一年目の真実~ビンラディンVSアメリカ~』(2002年8月31日放送)によると、ナイロビの爆破テロでは、その準備のために「ヘルプ・アフリカピープル」という慈善団体を隠れ蓑にしていたらしい。 ]

1992年(当時35-36歳)、ビン・ラーディンはに密かにサウジアラビア脱出、サウジアラビア王家を攻撃し続けるビン・ラーディンに対しファハド・ビン・アブドゥルアズィーズによる追放であったと言う説もある。民族イスラム戦線のハッサン・アル=トゥラビの招きでスーダンに渡り、ハルツームに軍事キャンプを設立した。財閥「サウジ・ビン=ラーディン・グループ」からの資金が止まり、スーダン国内で建設事業を行い財政面を安定化させるとともに、アフガニスタンで共に戦ったジハード団の指導者アイマン・ザワーヒリーなどと関係を深め、組織の拡大育成を行った。オスロ合意に反発、反米闘争がエスカレートしていった。ボスニア・ヘルツェゴビナの市民権を取得し、コソボやアルバニアでの紛争にイスラムのムジャーヒディーンを送り込み、アルジェリア内戦では武装イスラム集団を支援する財政的な援助を行った。アルカーイダの爆弾テロは1992年末のアデンのホテル爆破が最初である。その後、アルカーイダの中枢となったジハード団からのメンバーが、イスラム集団などと共闘して、世界各地で爆弾テロを行っていく。サウジアラビア政府は、ビン・ラーディンの国籍を剥奪、同時期にラーデイン家は、ウサマを一族から追放したとの声明文をサウジアラビア国内のマスコミに送っている。ホスニー・ムバーラクエジプト大統領(当時)への暗殺未遂もあり、アメリカ・エジプトの圧力で、ビン・ラーディンやアイマン・ザワーヒリーはスーダン国内に居られない状況となり、1996年にスーダンを出国、チャーター機でアフガニスタンのジャラーラーバードに渡った。



アフガニスタンにビン・ラーディンを招いたのはアブドゥル・ラスル・サヤフで、ソビエトとの戦いでジャラーラーバードにビン・ラーディンと軍事訓練キャンプを創設して以来の関係であった。アブドゥル・ラスル・サヤフは、世界貿易センター爆破事件の首謀者のラムジ・ユセフやアメリカ同時多発テロ事件の起案者とされるハリド・シェイク・モハメドなどアル・カイーダの首脳たちにかつてペシャワールでテロを指導したことがあった。ビン・ラーディンは、最初はハーリス派の庇護を受け、ジャララバードがターリバーン(タリバーンとも)の手に落ちると今度はターリバーンの客人となり、ムハンマド・オマルと緊密な関係を構築、アフガニスタン国内にアル・カーイダの訓練キャンプを設置していった。。

1998年2月にはユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線を結成し、「ムスリムにはアメリカと同盟国の国民を殺害する義務がある」というファトワを布告した。8月にはタンザニアのダルエスサラームおよびケニアのナイロビで1998年8月7日に起きたアメリカ大使館爆破事件によってFBIから訴追をうけた[USAMA BIN LADEN (FBI公式サイト)
にて]。
アメリカは当時ビン・ラーディンをかくまっていたアフガニスタンのターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを求めた。が、ターリバーンは応じなかったため、国際連合安全保障理事会において国際連合安全保障理事会決議1267が採択され、引き渡しを求められた。それでもターリバーン政権はこれに応じなかったため、経済制裁を受けた。2000年にもアル・カーイダは米艦コール襲撃事件をおこし、国際連合安全保障理事会決議1333によって再度引き渡しが求められた。


ブッシュ政権(当時)は、2001年9月11日に発生した(アメリカ同時多発テロ事件)の首謀者をウサーマ・ビン・ラーディンとアル・カーイダであると断定。アメリカ政府の公式報告書(『9/11委員会レポート』)によると、航空機を使用したテロ計画の発案者は、2003年に逮捕され計画の全貌を自白したハリド・シェイク・モハメドであり、ウサーマ・ビン・ラーディンは彼から計画を持ちかけられたという[因みにウサーマは当初事件の関与を否定していた]。

2001年のターリバーン政権崩壊以降、ビン・ラーディンの正確な足取りはわかっていない。

2004年以降から、腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道されている。最近になって、死亡説が浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、それによると、腸チフスで死亡したとの事である。が、フランスのシラク大統領(当時)が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。今も尚、死亡説の正否は不明。ほかに北朝鮮に潜伏しているなどの説があるが定かではない。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯ではないかという見解を示した[CIA Chief: Bin Laden Alive, Worried About 'Own Security' ABCNews]。

2010年10月18日、CNNは北大西洋条約機構当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが現在、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアル=カーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビンラーディンらは、パキスタン情報機関や地元住民に保護され、同国北西部の家屋に居住。付近にアイマン・ザワーヒリーも住んでいるらしい[http://sankei.jp.msn.com/world/asia/101019/asi1010190005000-n1.htmにて]。

そして長らく音沙汰が無かったが、今日2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、アメリカ軍の特殊部隊が潜伏先と見られていたイスラマバード郊外のアボタバードにある邸宅で、ビン・ラーディン当人を殺害したとCNNが報道した[ビンラディン容疑者死亡、ワシントンやNYで市民が歓喜
2011年 05月 2日 17:30 JST
にて]。


 

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